そのままにしても特に問題はない内容だったのですが

だいぶ昔にインターネットに投稿した文章を放置していたので

以前から頭の片隅には「整理したほうがいい」という気持ちがあって

今になってようやく過去に私が投稿したものを整理しています。

見られてはいけない内容や人に迷惑をかける内容というわけではなく

良くない意味でキラキラと弾けるようにハイテンションな書き込みです。

今だったら「何を使ってみました。ここが便利でした。私には合っていました。」など淡々と用件を書くのですが

昔の書き込みは「何を使ってみたよ☆すっごくいい、超いい!!これもいいけど、あれとこれも一緒に使って、最近はこういうことにハマっていいます。」みたいに、変な勢いに主旨とドンドン離れていって、良くない意味で明るく楽しく無駄に文章が長く、なんとか話を繰り広げるという感じです。

当時、自身を客観的に見ることができたら、おそらく強く自分を責めたと思う。

恥ずかしくて、なんでこんなことをしたんだろうって自己嫌悪に陥ったと思います。

しかし今は、寂しかったんだね、そんな中でもどうにか自分を保とうと頑張っていたんだね、

あの状況ではよくやったよねと

ただただ寂しかったことを受け入れます。

昔に書いた文章を読むと過去の自分と対話しているような感覚がある

だいぶ昔の過去に私が書いた投稿を整理してみて

大人になってからは時間が経つのが早くて私はたいして変わっていないと思っていたけど

今見ると、かなり子供の文章に感じた。

文章の書き方は時代の流行りによる影響もあるのかもしれないけど

それを差し引いても良くない意味で元気いっぱいの文体でした。

違う人を見ているような感覚で、恥ずかしいなという感覚はあまりなく

当時は今ほどは情報がない時代だったから

よくわからないモヤモヤの中をなんとか生きていて

大変だったね、寂しかったんだねって思った。

過去の投稿は削除しないで残しておくことにした

過去に私が投稿していたサイトは一括全削除という機能はなくて

アカウントがあるうちは一個一個手動で削除はできるけど

退会しても名前欄が空欄になって投稿は残るので

昔の痛い投稿を消したい私にはアカウント削除は意味がなく、

最初から最後まで良くない意味で弾けていて修正しようがない文章だけ削除して

内容があるものに関しては無難な言葉に置き換えて修正している。

一つ一つ書き直すのはかなりの手間で削除するほうが手っ取り早いんだけど

あの時、私はこんなことに興味があったんだって

今では全く覚えていないことも、あんなことがあったなって思い出すことができるから

手間ではあるけど1つの投稿ごとに文章を修正して、思い出として残しておくことにした。

私の日記を読むことによって過去の私の出来事を思い出すことができた

いい人を演じる顔色伺いに費やした人生

その場にいる他の人たちは年相応の「当たり前のこと」をこなせます。

私の場合、幼少期の時点で心も体も疲れ切って気力だけで立っているような状態だったので

「当たり前のこと」をこなせません。思考力も落ち、元気いっぱいなはずの子供時代の時点で体力がありませんでした。ちょっと人より疲れやすいというよりは立っているのもシンドイという感じでした。

当時は今の時代なら診断が出るような体調不良も「性格の問題」とされ、健康な人たちは私を「性格が悪い、怠慢」と称して責め立てます。人は自分と同じ病気の人以外の気持ちはわからないものなので仕方ないとは思います。

子供の頃からずっと責め立てられ、疲れ切っている私は何が悪いのかもわかりません。

「当たり前のことでしょ」という前提で改善点の説明はなく、「悪意」という評価で怒られたり嫌な顔をされることを延々と繰り返します。

私が顔色伺いをするようになった原因

私だって人に何か悪さしようと思ってそうしているわけではなく

自分のことなんだからうまくやれるならやりたいです。

気に食わない私に手をあげるような人は肯定されて

不快な言動はあれど手をあげることはない私のほうが悪い評価を受けます。

私はどんなに強く怒りを抱いても言葉で表現する発想しかないので手をあげることはありません。

物事として手をあげることのほうが悪いことではないのでしょうか。

今思えばどうやっても無理な状態だったと思いますが、当時の私は、報われなくてもなんとかうまくやっていこうと頑張り続けます。

その結果、人の顔色をうかがうようになって、常に気が気じゃない状態になりました。

人が怒っている、なぜ怒っているのかわからない、私が悪いのだ、何がいけないのかわからないから「いい人」を演じるようになります。

どうすれば否定しかされない毎日から抜け出すことができたのか

本来の答えは、その場の用件をこなすこと、趣味を見つけること、実用的な経験を積むことなどだったと思います。当時は私自身の問題に加えて、それらに気づくことができる環境もありませんでした。

何か意味あるスキルを身につけていけば良かったと思うのですが、思考力も体力も失っている状態だったので、そういう発想が持てなかった。

何の経験を積むわけでもなく、ただただ「明るく楽しく笑顔で頑張って喋る」ということを繰り返していました。

意味あることを全くせずに「相手を傷つけないように笑顔で喋る」などの発想で感情論ばかりやっていました。

今思えば、随分とおかしな思考に陥っていて、その方法でうまくいかないのならやめればいいのですが

疲れている状態だと結果に出ていないのに「頑張っていること」を成功経験だと錯覚してしまい、今やっている方法ではうまくいかないこと、うまくいっていないことも自覚できませんでした。

インターネットへの投稿は寂しさゆえの承認欲求からくるものだった

長い年月の寂しさを抱えて現れたものが、私が昔書いた、ごちゃごちゃとしていて弾けるようにテンションが高い文章だったと思います。

私が存在する意味を感じたいという承認欲求だったのかもしれません。

そのサイトに書いたからって私には何の得にもならないのです。

ただ、誰かに見て欲しかったのかもしれない。

Aというモノの話をする場所にAの話も書いてはいるのですが

Bの話、Cの話をもってきて、「です!!でした☆これはすごい♪すばらしい!!」というような

勢いのあるテンションで長文を綴っている感じです。

過去の自分に対して、恥ずかしいというよりは、かわいそうだと思った。

そのくらい疲れていて寂しかったんだね。

過去の寂しかった私を今は受け入れている

好きなことをやって寂しさを埋めていた点は肯定できる

痛い人ではあったけど文章を書くことが好きなのは本当だし

好きなことをやって寂しさを埋めていた。

それが自分のブログだったらまだ良かったけど、ブログではなくサイトに投稿していました。

そのサイトは多くの人が知っているような信用ある企業の大手のサイトで

サイト側から私の投稿を削除されたことはなかったので

人に全く迷惑をしていないとは言えないけど、

私の投稿に興味がない人は読み飛ばすだけでたいして迷惑ではないと思う。

誰かを攻撃して自分を保とうとするよりは、はるかにマシではないだろうか。

好きなことをやって寂しさを埋めていた点は肯定できます。

環境が悪いのではなく私自身が寂しさを作り出していた

寂しさは私自身が作っていた。

おかしなトーンで書き込みをしていた当時、私は過酷な環境にいたわけではなく

むしろ恵まれた環境にいたと思います。

幼少期から辛い人生だったので私が疲弊するなりの原因はありました。

そして出来上がった疲れた心と体によって自ら寂しさを作り出していました。

ダメージが強いと今ある場所には恵まれていても疲弊した心による影響は続きます。

疲れ切った心から回復することは不可能ではないけど難しいと思います。

大人だったら生活がかかっているから、やることができていない人がいたら周囲の人が不満を抱くことは妥当だと思うけど、大人になるための準備をする子供時代に否定して潰してしまうやり方は本人にもデメリットだけど、「できることはある」のに全ての可能性がなくなってしまい、全体像として考えても生産力が落ちて結果的に不利益だと思います。

体が健康な大人は疲れている子に「言わなくてもわかるでしょ?」って言うけど、否定され続けたら誰だって面白くないことも「言わなくてもわかること」だと思います。健康な大人たちの言い分としては「あの子が悪いのだから何を言ってもいい」「言ってあげている」という考えだと思います。

誰しもが診断がつかない体調不良になる可能性はゼロではないと思います。

もし自分がそうなった時に怠慢呼ばわりされたら悲しくはないのでしょうか。

せめて子供時代までは「できない子」を否定しないほうが万一自身が診断のつかない体調不良に陥った時にやさしい世界があるのではないでしょうか。

私は辛い子供時代を過ごしたけど、かなり恵まれた環境があったから良くない道に行くことはありませんでした。私が強いのではなくて環境の力で自分を保つことができました。良くない道に行ってしまった人たちが弱いのではなく拠り所がなかったのかもしれません。

欲を言えば、子供時代に大人が気づいて回復を促してくれたら良かったけど当時は知能も正常で熱もないような私が診断にたどり着くことは難しい環境だったから仕方ないと思っています。