疲れている人間に対して「楽なほうに逃げたら駄目だよ」と言ってしまう人がいます。
そういう人は自分がある程度健康だから相手は限界に達して、休む、やめる、辞退するなどの選択をしていることがわかりません。
健康な人は疲れている人に簡単に、甘えるな、負けるな、逃げるな、頑張りなさいと言います。
連帯責任もなく相手がどうしようと自分にデメリットがあるわけでもなく無関係な人間にも「逃げちゃ駄目だよ」と批判する人もいます。
それはある意味、自己紹介なのだと思います。
元気な人でも誰でも「やろうと思えばできるけど面倒」「まだできるけど飽きた」という理由で、自分にとってプラスになることをやらなかったり、今やっていることをやめてしまうことが一度や二度はあるのではないでしょうか。
そのような「できるけどやらない」ことを完全に阻止できれば今よりもっと良い結果を出せるのかもしれませんが
だるい、めんどくさいなど理由はなんであれ適度に休むことも必要で
何をどれくらい頑張れるか、それも含めて個性です。
趣味が合う人や自分と同じくらいの段階にいる人と交流する
できるならできるに越したことはなく、できることがたくさんあるほうがいいけど
絵は得意だけど勉強は苦手、トークは得意だけど料理は苦手など、できること、できないこと、得意なこと、苦手なことが人それぞれで個性豊かに色んな人がいるから世の中が成り立っています。
他の人全員が100点満点を取れる環境にいたら私は常に最下位になります。すごく勉強ができる人、そこそこ勉強ができる人、平均的な人、勉強が苦手な人など色んな人がいるから単純に順位だけで言えば私の上にも下にも人がいます。
それでいいのだと思います、それだからいいのだと思う。
この世界はお金がなければ生きていけないので、お金はあればあるほど安心ですが高級店に行くことが当たり前の人と庶民がお話しても話が合わなくてお互いつまらないと思います。庶民は庶民と気軽に行けるお店の情報交換がしたいです。
生活の安定という意味ではお金はあればあるほどいいけど自分が関わって楽しいかという観点で見れば高すぎても低すぎても話が合わないので同じくらいの人が丁度良いです。良ければ良いほどいいはずなのに高すぎる人が普通の人に混ざっていくことも凡人がレベルの高い人の輪に入っていくことも人間関係という意味では場違いとなります。絶対にうまくいかないわけではないけど自然に仲良くなったのでない限りは自分と段階が違う人の輪に積極的には入っていかないほうが気まずい状況になることを未然に防ぐことができます。
逃げなければもっと良い結果を出せるのは健康な人自身の自己紹介
体または心、もしくは両方が疲れている場合、健康な人のように「できるけどこのへんにしておこう」ではなく、できる体力がありません。
人に対して「できるのにやらない」と思って否定の言葉を発してしまう人は、ご自身がそうなのでしょう。
ある程度は健康だから、できるけどやらない場面が存在して、そんな自分に重ねて疲れている人に対して「逃げないで頑張りなさい」と言います。
逃げなければもっと時間を使えるのは健康な人自身の自己紹介だったのです。

同じ病気の人以外とはわかりあえない
疲れている人間側の立場から見たら、安易に甘えるな、逃げるな、負けるな、頑張りなさいと言ってしまう人に対して心無い人のように見えてしまいますが
疲れている人間側の私であっても、私とは別の原因で疲れている人に対しては
もうちょっと頑張れるんじゃないかな?と考えてしまいます。
私とは別の種類の疲れている人に対して、あなたは一人じゃなくて心配してくれる人がいるんだから、もうちょっと頑張れないのかな、自分でセーブできないのかなと思ったこともありました。
私は幼少期からつらい人生でした。苦しくて辛いと思う経験をしていても自分が知らない病気の人に対しては無意識に「もう少し頑張れないのかな」という発想が出てきてしまいます。
人間、そういうものなのかもしれません。
疲れている人に批判の認識を持ってしまう人が特別意地悪なわけではなくて、人間は自分で実体験したことしか理解できないものなのだと思います。
人の痛みを知っても別の種類の痛みはわからない
つらい経験を乗り越えたり自分とうまく付き合えるようになったら「人の痛みがわかる人」になって辛い思いをしている人の気持ちを理解できるようになると思っていたけど、実際はそうでもないんですね。
私自身が人には理解されない苦しみと共に生きてきたから
一見怠慢に見える人に何も言わない、批判をしないことはできます。
しかし内心は、なんでやらないんだろうと思っています。
過去の私に対しても、見た目は健康なので、なんでできないんだろうと不満を抱く人はたくさんいたと思います。口に出して否定してくる人もいました。
その時、私は悲しいと思いました。
だから私は、怠慢にしか見えないような人であっても何も言わないことはできます。
しかし、どういう原因でどのように辛いのか、どうしたらいいのか理解しているわけではありません。
私ができることは批判はしないこと、それだけです。
仮に自分が辛い病気を経験したのであっても、別の種類の病気の人に遭遇した時に、その人の気持ちはわからないものなのです。想像はできるけど想像にすぎず、想像は事実とは違う点が多々あって、自分が同じ病気をした時みたいに同じようにはわからないのです。
人に批判をしないことが自分の身を守ることにもつながる
知らない病気を理解しようとするよりも、実体験のないものはわからないのだということを自覚するほうが悪意なく人を傷つけてしまうことを防げます。
私は辛い人生を送ってきたから、病気だからできなくて仕方ない状態であることを周知されている人にも、怠慢にしか見えないような人にも自分に直接の迷惑がない限りは何も言わないし、迷惑に感じても可能な限りは距離を取ることで対応します。自分のことだから誰だってうまくやれるならうまくやりたいので自分のためにやったほうがいいことをやらない人は、やらないのではなくできない事情があるのだと考えています。
理解しようとするのではなく、わからないことを認めて何も言わないほうが現実的な対策です。
わからないものはわからないからです。
わかると思うのであればそれは想像であり事実ではありません。
理解がないまま行動や発言をして相手を傷つけたり悪化させるリスクを考えると何も発言しないことが無難です。
そして自分が疲れている人を傷つけることがなくなれば、恵まれた体を持っているがゆえに心無いことを言ってしまう人に遭遇した時に、この人はわからないんだから仕方ないと諦めることができるので理解のない発言に傷つくこともなくなり自分の身を守ることにもつながります。
疲れている人に対しても健康な人自身の背景を敷いて物を言う
健康な人は健康な自分の背景を疲れている人に敷いて、怠慢だと否定します。
疲れている人に対して甘え、負けるな、逃げるな、頑張りなさいと言ってしまえる人は
ご自身が、やればまだ頑張れるのにやめてしまう時があるか、あるいは非効率な方法をやり続けて頑張ったなりの結果が出ていなかったり自分のやることをやるために生きるという視点が欠けているなど間違った方向に努力をしています。
自分が頑張ったことは自分の人生でうまくいけば満足で、自分の人生に満足していれば無関係の人に自分がした努力をするように望むことはありません。アドバイスをしている時は優越感を得られるのかもしれませんが仮に人の人生に指図をして結果を出したとしても、それは人の人生であって自分の人生ではないから満足できません。
自分の人生で、やりたいことをやっていればいいのです。そうすれば人の人生で叶えようとする発想はなくなります。
疲れている人をめがけて承認欲求を満たそうとする
病気なのか、何の病気なのか、それらがわからないにしても疲れている人を見れば疲れているのだということはわかると思います。
わざわざ疲れている人をめがけて「もっと頑張りなさい」と言うのではなく、他にいくらでも健康な人がいるのだから、頑張る体力がある健康な人に言えばいいのに
疲れている人に頑張りなさいと言ってしまう人は無意識に自分より疲れている人を探して承認欲求を満たそうとします。やろうとしてそうしているのではなく無自覚に弱い人間を探しているところが、人間の心って自分を守るために巧妙にできているのだなと、ある意味関心します。
心が元気な人は迷惑なアドバイスに傷つかずに淡泊な対応を繰り返すなどして今後相手が近づいてこれないようにガードできるため、無関係の人にアドバイスをして承認欲求を満たそうとする人は、普通の人には相手にされないから構ってくれそうな疲れている人をターゲットにします。

迷惑なアドバイスを回避する方法
自分と他人の境界線を越えて人を批判する人間には
この人おかしいな、この人といると疲れるなと気づいた時点から、極力近づかないようにして話しかけられた時には「ふーん、へえ、そう?そうなの?そうなんだ」など無視はしないけど流す返事のみに徹して入ってこれないようにすることが対処法となります。それでも離れてくれない時には無表情に黙ったり、「やることがあるので」など自分に都合を作ってその場を離れます。
一言一言真面目に対応したりニコニコと接していると「言っていいんだ」と思わせてしまうから、入ってこれない空気を示します。
私を否定する人といても私も面白くないので離れます。
離れられない理由があるのだとしたら、気分を害するような相手と一緒にいたいという気持ちはなく、誰とも関係を悪くしたくないという理由です、しかし
常識に欠ける人は、真面目に相手にしてくれた人にほど強く怒りを抱き、淡泊に接するほうが怒りを抱きにくくなります。
誰だって自分という人間を否定されたら嫌な気持ちになります、自分がされたら嫌なので、通常は良く思わない相手であっても離れれば済む関係であれば否定の言葉を発することなく距離を取ります。わざわざ否定の言葉を使う時点で常識がないように感じます。
大切な人を大事にするにも、好きなことをするにも、人を傷つけないためにも、自分で自分の身を守ることが必要です。自分の身も守れないようでは、やり方がわからないので自分のことも大切にすべきものも大事にすることができません。疲れると本来はやさしい人でも誰でも意地悪になってしまう可能性があります。
だから第一に自分を大事にします。
迷惑に思う相手が入ってこれないようにすることも、守るべきものを守るために不可欠なことです。
人は失ってからしか気づけないもの
自身がある程度健康ゆえに疲れている人間の気持ちがわからなくて心無い発言をしていた人も
今何か起きているわけではなくても憂鬱な気分が続いたり、体の検査では異常がないのに強い疲労感が続くなど理解されない病気になった時に、人の痛みがわかります。
今健康な人は当たり前に健康です。健康な人はたまたま健康だったのです。病気になった人も偶然病気になりました。
今ある当たり前が当たり前じゃなくなった時に、人は失ってから初めて、自分は恵まれていたことに気づきます。その時、疲れている人はたまたま病気になったのであり、疲れている人が悪いのではないということを知ります。
失う前に気づけたらどんなにいいことか、そうしたら貴重な時間をもっと大切に使ったのに、あの時傷つけてしまった人にもっとやさしくできたかもしれないのに、失った後に誰しもがそう思うのではないでしょうか。
悲しいことに人は失ってからしか気づけないこともたくさんあります。
だからこそ、まず自分を大事にして、人を傷つけず、やめることができるやりたくないことや意味がないと思ったことはやめて、やりたいことをやって毎日を生きていこうと思います。